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多摩ニュータウンの現状 | 高蔵寺ニュータウンの現状 | |||
多摩丘陵を切り拓いて開発された多摩ニュータウンの総面積は約30ha。1971年に入居がスタートし居住人口は約24万人に。しかし、ニュータウン開発のきっかけとなった高度経済成長は、1974年のオイルショックで終わりを告げます。住宅供給の方針も「量から質へ」とシフトし、画一的な大規模団地だけでなく、タウンハウスや戸建住宅など、多種多様なタイプの住宅が供給されるようになりました。当時建てられたマンションはすでに築45年以上経過しており、構造や設備の老朽化が進み、エレベーターがないなど不便なものになっています。高度経済成長期には、ここに子育て世代が一家4人で住むのが一般的でしたが、今は、画一的な間取りの40m2台の住戸に4人が住めるという時代ではなくなりました。大きなマンションに住みたい、またはリフォームして住みたいと言った若者の需要に応えることが難しく、建物の外観の古さもあり、若い子育て世帯にとっては、全く魅力のない住宅となりました。又、多摩の山中を切り開いて開発された住宅地であるため、緑や自然は多いですがどうしても坂道が多くなり、移動も車やバスがないと不便です。坂道が多く歩く距離も長いことは、今や主な住人である高齢者にとって大変住みづらい環境と言えます。やはり生鮮食品など毎日の買い物は近隣の商店やスーパーで行う人が大半です。そんな毎日の買い物に不便なことも人気の低下の一因と言えるでしょう。今や「超高齢化」の波が押し寄せています。今後の予想では、2050年に多摩ニュータウン全体の人口が7%減。ニュータウンの多摩市域だけに限ると、27%減が見込まれています。とくに人口減少が顕著なのが、初期に開発された諏訪・永山地区では、人口の32%が減少すると予想されています。 | 愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウンは名古屋市の北東に位置する春日井市の丘陵地を対象に切り開き、1968年に入居が開始されました。 当時の日本住宅公団が手掛けた全国初のニュータウン開発として注目を集めました。 当初の計画人口は8万1000人、計画戸数は約2万戸。ショッピングセンターや飲食店、交番や郵便局などが集積する「センター地区」を中心に7つの住区で構成され、約8000戸の賃貸住宅と2400戸の分譲住宅や県営住宅、約9200戸の戸建住宅、そして小中学校や高校などが整備されていきました。道路が整備され、JR中央線高蔵寺駅から名鉄バスが出ていて交通アクセスいい。賃貸と分譲がありますが、ほとんどが賃貸で家賃も高いほうでした。入居者は名古屋の大手企業などに勤める比較的裕福な層の方が多い傾向にありました。 95年には約5万2000人をピークに人口は減少に転じました。団塊世代の子どもたちが巣立ったまま新しい入居者は増えず、残された親たちが一斉に高齢化していきました。 現在の人口は4万5000人を割り込み、65歳以上の高齢化率もニュータウン全体で約30%、地区によっては40%を超えています。3人に1人が高齢者、賃貸住宅の空き室率は約13%という状況です。 その一因には団塊の世代の子どもたち、時代の先端を行く住宅に住もうというリベラルな考えを持つ人たちが独立して地元を離れていったことがあると思います。 | |||
08:30 |
千里ニュータウンの現状 | 羽生市の失敗 | |||
千里ニュータウンは開発面積1160ha、計画人口15万人。1962年から入居が始まりました。 しかし、やがて建物が老朽化し、千里で生まれた子どもたちが独立していく中、新規入居者は増えず、初期入居者だけが取り残されたのです。 人口もピーク時の1975年には13万人近くを数えたものの、2007年には8万9000人余りまで減少。そこで危機感を抱いた府や市は千里ニュータウン再生指針を策定、団地の建て替えに動きだしました。 空いた土地にはマンションが進出。その結果、人口は2011年から徐々に増加に転じ、2013年に9万5000人を突破、2016年は9万9000人台に回復。老朽化した団地やマンションによる建て替えが急ピッチで進んでいます。 千里は電車1本で大阪梅田へ行けるうえ、京都や神戸に向かうにも便利な場所にある土地柄もプラスしたのでしょう。 そういった再開発が進み、新住民が移住してくる一方で、千里にはまだまだ、半世紀も経つが建て替えを断念し、自主管理を続けるところは少なくないのです。 当然、住民の多くは、高齢者であり、老朽化した分譲住宅は賃貸でけでなく、空き家も増える現状は変わらないのです。 | 埼玉県の羽生市では2003年住宅の建築を促す施策を打ち出しました。 今まで市は新しく住宅を建てられるのは市の中心部だけでした。そこで規制を緩和し、市のほぼ全域で住宅を建築できるようにしたのです。 規制緩和の目的は、定住につながる戸建て住宅の建築を促すことでした。ところが建築されたのは150棟のアパート。しかもその9割以上がサブリースでした。 急増したアパートに需要が追い付かず空き部屋率は倍増し、35.8%に達しました。 サブリース以外のアパートでも空き部屋が急増し、家賃相場が下落。 そして町の空洞化につながったと見ています。 市の思惑は大きく外れたのです。 | |||
08:30 |
夕張市の今 | 多摩市 桜が丘住宅地の現状 | ||||
炭鉱の町として栄えていた夕張市、1960年頃には人口を11万人以上抱える都市でしたが、時代とともに石炭産業は衰退し、1990年頃には夕張のすべての炭鉱が閉山しました。 石炭以外の産業基盤がなかったため、夕張市の若い人はどんどん市外へ流出し、人口は激減。いまや人口は1万人を切り、今や市内に残っているのは高齢者。 そのため2007年に深刻な財政難をうけて、事実上の財政破綻。 明かりがついている家はのはほんの数えるくらいで、人が住んでいない家屋が多いようです。人が済まなくなった建物は、老朽化が早く進みます。そのような廃屋ばかりがめだちます。人が住んでいる家と廃屋が共存しているのです。 1990年頃、町おこしの一環で始まった「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」でしたが、今では道のど真ん中に看板置いてある状態です。 赤字が続く遊園地を壊して今は更地のまま。市の北部にある無駄とも思える観光施設は、財政再建でほとんど閉鎖。他にも壊さなければならない施設は沢山ありますが壊したくても壊せない状況です。 | 東京都多摩市にある「桜ケ丘住宅地」は京王電鉄が最初に手がけた大規模ニュータウンで、1960年に工事を始め、1962年に分譲を開始。1971年までに約1300区画の販売を完了。 阪急電鉄の経営モデルを意識した「多摩の田園調布」の異名をとった高級住宅地として、国内では類を見ない本格的な街でした。 新宿から京王線特急で約30分の「聖蹟桜ケ丘駅」の駅を出て坂道を上ると、山を切り崩して造成された場所に家々が整然と並んでいて、ジブリ映画「耳をすませば」の舞台として知られています。 1965年ごろ、結婚して子どもが生まれたのを機に埼玉県から移り住んだ人は、最寄り駅に特急が止まる便利さと、何より環境が気に入り、ここに住み着きました。 街並みの美しさと静かな環境はかわっていないが、現在の問題は深刻な高齢化です。最大の要因が、坂道です。 住宅地までは駅から大きく曲がりくねった急勾配の坂道が1キロ近く続き、高低差は約50メートル。歩くと中心部まで20分近くもかかり、若い世代はこの坂道を嫌い、成人すると街を出て、通勤に便利な都心のマンションに引っ越すのです。 バブル期、住宅地は1坪当たり400万円の値がつき、1989年10月の朝日新聞には、桜ケ丘の80坪の土地と家を売り2億円を手にし、広島に一戸建てを買い、息子には都内のマンションを買い与えたという逸話を紹介しています。それが今や、「1坪当たり40万円から60万円。平均で50万円程度でしょう」と、地元の不動産業者は言います。 当時の8分の1近い価格。それでも買い手は容易につかず、住宅地には空き家や草が生い茂る空き地が点在しているのです。 |
マンションのスラム化-1
マンションのスラム化-2